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2015年05月14日

何故写真を撮るのか。僕がそこにいた証だ。

昨日は撮影を頼まれて、とある立体作品約10点の写真撮影をした。作者が当該作品を未公開ということもありここへはアップできないが、見る側の目線(高さ、角度)で楽しむ風景とは違い作者が作品でしたかった表現をなるべく拾い切らんと対峙した。

作品の周りを何度も回りながら画角を探し、部屋の明かりやスタンドを時には画角ギリギリまで接近させて、挑む。10〜20cmの作品の中でフォーカスポイントとボカシを混在させて強調する。普段私たちがおおよそ水平に見る料理や、垂直に見る風景とはまた違う対象に、素人ながらに心血を注いだ。

伸ばしたままの両足の開度で高さを調整し、両の脇を締め、全身に力を入れる。シャッターを切る瞬間に息を止め、テーブルの上の10〜20cmほどのそれらのために、一時間もするとヘトヘトになる。ちなみに本日は既に筋肉痛。

僕の場合三脚を使うと、その自由度の低さから画角決定のプロセスをサボる傾向がありそうで、あまり好んでは使わない。例えば、三脚の脚にそれぞれ滑車がついていて、高さの変更やカメラの角度の調整が無限段階調整が可能で、三脚を意識せずに画角を選べた後にそのカメラから手を離してもずっとその位置にカメラが居続けるような機構をもった三脚であれば使って見たくないわけでも無いが、高そうだ。

多分私は撮影という行為が好きな方だが、頼まれてやった撮影こそ自分が納得行くまで撮る。あたりまえだが。画質がイイとされるiPhoneがカメラだと思っている人に、エントリークラスでも一応一眼レフの枠に入るカメラで撮った写真を見せれば、その表現力に対する驚嘆を得ることくらい私にもそれほど難しいことではない。手前と奥をぼかして、その間に焦点をあわせれば、そこがフォーカスされて、立体的な写真!と評される。

違う。少なくとも僕の昨夜の撮影は、作品の作者を喜ばせるだけの身内贔屓が目的ではない。作品を実際に目で見ることができず、写真でしか伝えられない相手にも、その魅力を少しでも多く伝えること。あらゆるパンフやカタログの写真でさえ、撮り手がこのことを考えるのをサボった写真というのはすぐにわかるもんじゃないですか。ね。

何故写真を撮るのか。僕がそこにいた証だ。
posted by 山 at 08:18 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする